
歴史研究家 落合 莞爾
落合史観を読み解く要となる言葉を、ひとつずつご紹介します。各項目をクリックしてご覧ください。
各エリアの風土、文化、土着している人間の特性、地政学、宗教など様々な構成要素も「國體」と言いますが、これを保持していこうとする勢力を國體と呼びます。 通常表に出てくることはなく、裏側からそのエリアの「國體」を守ろうとします。 構成主体は、メソポタミアに端を発する「ウバイド人」で、彼らがBC8000年以降日本に到来していて、ここから遠くないタイミングで皇室となるウバイド皇統も日本に来ています。 日本にいた縄文人と波長も合い、共存して日本の基を作ってきました。 ウバイド人について説明すると長くなるので一旦ここまで。 日本の國體は、中世や近世の伏見殿や現代では京都皇統が國體(勢力)の中心にいらして、脇を國體奉公衆が固めています。 隣国シナでは、華僑が國體で國體ネットワークを形成しているとのことです。 裏からこれまでの歴代各帝国の生み出しに寄与しているようです。
各エリアの風土、文化、土着している人間の特性、地政学、宗教など様々な構成要素も「國體」と言いますが、これを保持していこうとする勢力を國體と呼びます。
通常表に出てくることはなく、裏側からそのエリアの「國體」を守ろうとします。
構成主体は、メソポタミアに端を発する「ウバイド人」で、彼らがBC8000年以降日本に到来していて、ここから遠くないタイミングで皇室となるウバイド皇統も日本に来ています。
日本にいた縄文人と波長も合い、共存して日本の基を作ってきました。
ウバイド人について説明すると長くなるので一旦ここまで。
日本の國體は、中世や近世の伏見殿や現代では京都皇統が國體(勢力)の中心にいらして、脇を國體奉公衆が固めています。
隣国シナでは、華僑が國體で國體ネットワークを形成しているとのことです。
裏からこれまでの歴代各帝国の生み出しに寄与しているようです。
わかりやすいのが、ユダヤです。
日本では、物部氏や籠神社の海部氏などが該当します。
あとは大本教を作った出口王仁三郎(上田鬼三郎)、京大の教授だった上田正昭などもユダヤの末裔です。
海部氏については、海人氏族に背乗りして名乗っています。
古代イスラエルの民で、アッシリア捕囚の後に日本に渡来した人々です。
自分たちの国家を持つことを(いったん?)あきらめて、寄生することで生きる道を選びました。
世界的に見ると金融を握り、中世~近世には宮廷ユダヤ人となり、いわゆる「陰謀論者」が「ハザールマフィア」と想定している「国際金融連合」が当たると思います。
また、國體と政体の間に入りって、両者がなるべく接触しないようにするよう役割もあるようです。
寄生体の一派とも思われる人々が、FBでは複数アカウントを有して、愛国者を装うアカウントや旧約聖書やヘブライやユダヤを顕彰するような言動をするアカウントを分けて運用しています。
あと、ユダヤ教と同根のキリスト教の訴求もし、古代日本人がこれらに深く関係してきたかのような言説を説いています。
「落合秘史研究会」や「京都皇統八咫烏協会」などもこの関係者がやっているようです。
彼らがユダヤ人の事績と語るようなもののルーツはあのエリアで最初に文明を興していたウバイド人のものである、と考えるのが自然で、それを敢えてユダヤの事績と語るのは、隣国が「ウリジナル」と揶揄されるのと同じようなものかと思います。
寄生体は、宿主を選ぶので、敗戦後は一部がGHQや米国に尻尾を振って率先した彼らの手先になったようです。
古代から現代まで、あの人物は國體側だろう、と考えながら歴史を再点検していくと、いろいろ面白いことが見えてくると思います。
欧州列強が国民国家を形成を進め帝国主義的動きを加速させていくことが予見される状況を鑑みて、光格天皇や仁孝天皇の頃から計画され、幕末~維新まで実行された一連の計画・施策。
これによって、孝明天皇と睦仁親王は偽装死して、水戸藩が本圀寺に極秘造営した堀川御所に入る。
大室家は、護良親王の息子興良親王の後裔の家。
南北朝の八百長期に天皇は護良親王の後裔に限るという極秘の取り決めがなされたが、田布施大室家は皇統を継ぐ資格があった。
(その結果大室寅之祐が生まれる)
朝彦親王と徳川慶喜がその推進の主軸となる。
徳川幕府終焉後は公議政体(議会政治)を目指す。
主要大名を蟄居として行動の自由を確保し、京都粟田口青蓮院に極秘に造営された「学習院」で上下の身分を問わずそれら大名や各藩の俊秀たちを集め、彼らが自由に意見を交わし、公議政体樹立に向けて連携を取らせる礎とした。
先日、皇太子一家が見学された京都学習院は青蓮院内学習院の存在を隠すためのアリバイで作られた。
井伊直弼は、暗殺される覚悟をもって安政の大獄を進めた。
古来より山口の地は朝鮮移民が多く、不安定な土地柄。
開国期に外国勢力になびかれると國體の脅威になるため、長州卒族(足軽や中間小者など士族でない、朝鮮移民の末裔)を戊辰戦争での功績をもとに士族に引き上げて体制内で抱え込む。
長州卒族の代表格が、山縣有朋や寺内正毅など。
伊藤博文も同様だが、彼は複雑な血統ロンダリングがなされていて、もともとは高貴な血筋とのこと。
つまり、戊辰戦争は幕府を負けさせること前提の八百長。
陸奥宗光は、政体と國體の伏見殿をブリッジして活動。
船中八策は、尾崎三良に立案させ龍馬に発表させるのを裏で差配したのは、陸奥宗光。
(木戸孝允は偽装死して、欧州に戻る。)
坂本龍馬が英雄にされているが、実際はパシリ程度の役割。
その他インドネシアなどに秘匿された黄金も回収。
併せて朝鮮の李王朝からも極秘に公家に潜入させる。
ジャーディンマセソン商会のグラバーの派遣、佐藤甚兵衛海外後裔のアーネスト・サトウの派遣、フルベッキの派遣、モンブラン伯爵の派遣など。
榎本武揚、小野友五郎、立石斧次郎、田島應親、渋沢栄一など。
維新政府の実態は、ほとんどが旧幕臣が担っていた。
落合史観に不可欠な重要ワードです。
古来からの戦のやり方の1つとして紹介されています。
古代であれば、双方から勇者を1人ずつ出し決闘させる。
決闘で負ける方は死ぬことになるが、これが一番犠牲が少なく、公開決着のため立ち会う人々も多く関係者への伝達コストが低減し速やかに部族の意識変革を行うことが可能です。
亡くなる側の勇者は、八百長を理解していれば「侠」・「任侠」の精神をもった犠牲ということになります。
これが社会集団が肥大化していくと、八百長の戦いも大きくなっていく必要があり、亡くなる人の数も増えていかざるを得なくなります。
そして、それは近現代でも同じことと・・・。
日本史に関していうと、以下のものが書籍などで八百長の戦いとして述べられています。
日本史で学ぶ日本史上の大きな戦いは、大概八百長となります。
初めて聞くと、「そんなバカな!」「ありえない!」「なんで?!」と思われると思います。
当たり前のリアクションだと思います。
しかし、國體ワンワールド史観を下敷きにして考えていくと、「八百長であった」ということがわかってきます。
また、上記以外にも日本史では様々な戦いを学ぶと思います。
では、それはどうだったのか。
それについて道筋が見えた時、日本史が全く違って見えてくると思います。
何のための八百長か
ある集団が、均質的で同じ思考ができ、利害関係も同じであれば、八百長ということはなくなるかもしれません。
同じではなく、思考や視野が違う人々が社会の上層部と低層部を構成した場合、低層部の人々に向けては八百長で煙幕を張り、歴史が自然と流れているように見せるしかない、ということだと思います。
「日本の事績でそうなのだから、では世界は?」と、対象とする時間と空間を広げて考えてみるのも、落合史観で考える醍醐味の1つであると思います。
「八百長」同様に、落合史観に欠かせないワードです。
落合史観が作り出したというより、本来「八百長」と共にウバイド國體ワンワールドの秘事であり、物事の進め方だったのだと思います。
偽装死にも様々な理由があるようですが、やはり皇室関係者に多い印象があります。
近親結婚が多かったにせよ、多くの皇子や皇女を残した天皇や長寿の天皇とその逆の天皇が近い尊属(卑属)で現れるのは怪しいと思います。
詳しい理由はわかりませんが、國體ファンドに絡んだり、有間皇子のように海外に移動する、何か秘事を裏で行うために姿を消す、など様々あるようです。
著書などで偽装死がわかっている人々
取り急ぎ思いつくものを挙げました。
「あの人足りないよ」という人物がいればご指摘をお願いします。
おそらく偽装死と思われる人々
偽装死は想像の幅を広げてくれますが、無意味に多用すると当てずっぽうになるので、それぞれしかるべき理由をもつことが必要になります。
「偽装死」で見えてくる歴史の裏はとても面白いと思います。
潜入には、大きくは2つあります。
組織への潜入と血統への潜入です。
組織への潜入
「國體」、「政体」、「寄生体」いずれもが行っていることです。
それぞれが、それぞれに関係者を潜り込ませます。
これまで出て来たような話としては、以下があります。
バスク人は國體ワンワールドには不可欠な存在で、國體秘事に活動にも従事していたようですが、それに偽装した2人がイエズス会を通じてバチカンに入り込んで、悪さを始めたようです。
これにより、イエズス会が寄生体の組織になってしまったようです。
すでに解任されていますが、トランプ陣営の主要メンバーであった人物も潜入でした。
トランプ陣営も、寄生体である国際金融連合の影響下にある民主党に潜入していると思いますが、詳しくは誰かわかりません。
血統への潜入
血統にすっと潜りんでいく「潜入」とは別に、その血統を偽称する「仮冒」とがあるので、区別が必要です。
藤原北家を称する藤原秀郷は、大伴系の偽称のようです。
坂東平氏、伊勢平氏、源氏などは、もともと皇別ではなく、各地に散っていたタチバナ、「欠史八代」後裔他皇別氏族を、臣籍降下した賜姓皇族に血統を疑似接続したもののようです。
潜入や仮冒とも違い、血統ロンダリングの人々もいます。
広義には潜入かもしれません。
サスペンスというか、アクションというか、推理小説というか、そういうフィクションの世界で語られているようなことが日本では多々行われていたことになります。
こういうことを知って、歴史を眺めてみると、新たな発見や気づきや疑問の解消など、様々なことがあると思います。
こういう極秘操作をして、日本や世界を支えてきた「國體」や「國體側の人々」には感謝の気持ちが湧いてしまいます。
学術的に「ウバイド文化」は存在するが、当時生きていた人々に対しての呼称がないため、落合莞爾が著作の中で便宜的に「ウバイド人」と使用。
ウバイド人は、ビュルム氷期を寒冷地適応することなく高山地帯で過ごし、ビュルム氷期が終わった紀元前8000年頃から、しばらく時を経てメソポタミアに登場。
ウバイド人のような旧人類は、その他にもビュルム氷期中でも比較的温暖であった太平洋沿岸の地域にも存在し、縄文文化を担った人々(縄文人)もその一つとされる。
ウバイド人はメソポタミアに登場した際から、農耕、漁労、牧畜の三つに社会的分業を行っており、各生業で生ずる余剰生産物交換における媒介として「黄金」が機能することを予め知っており、円滑な社会的分業から文明度を高める術を持っていた。
また、黄金の利用価値を理解していたため、ウバイド人たちは世界各地の河川などに散在している自然金の収集を図った。
収集の方法は、ウバイド人が各地に移住し、高度な灌漑技術で河川を灌漑する際に密かに収集していた。
灌漑によって飛躍的に食料生産規模を高めたエリアは文明が発達していった。
メソポタミアには紀元前5500年から3800年頃まで存在し、以降はシュメール人にメソポタミアエリアの文明を引き継ぎ、東西への移住を推進した。
東に向かった人々がインダス川やウラル海に注ぎ込む内陸のアムダリア川に到達した。
インダス川からガンジス川に内陸で移った後かその前か、一団が船団で東南アジアから日本に到達した。
この海から渡ってきた一団の中に、日本皇統となったウバイド人たちもおり、海から日本に到達した人々を、落合莞爾氏は「タチバナ」と呼称している。
到達した先は和歌山県の熊野エリアで、さらにここから一部が博多(那の津)に展開した。
なお、海人ウバイドのタチバナは、その後の姓では、和田(楠木)、橘、津田、井口、菊地(土編)、橋本、井上などを名乗っているが、さらに様々な名字が派生しているようであるが、井口や井上同様に灌漑技術に優れていたので「井」が入ることも多いらしい。
また、ウバイド人同士の時は、自分たちのことを「イシヤ」と呼ぶようで、現在でもウバイド人の密度が濃い和歌山や大阪南部では「イシヤ」を使う人々が存在。
ところで、ウバイド人ではあるものの「タチバナ」とは別で呼称されるのが「サエキ」。
佐伯と紛らわしいので「サエキ」と表記されるが、高山地帯で生きて来たからか修験のようでもあるので、「修験サエキ」とも呼称される。
サエキは主に大陸で活動した人々を指すことが多いようで、アムダリア川やシナの黄河や長江を灌漑していた人々は「サエキ」と呼ばれる。
シナの伝説的な王と言われる「尭」、「舜」、「禹」もウバイド人で、特に「禹」が高い灌漑能力を発揮した。
大陸で活動する中で、黄金を管理や移動を担う氏族はシナでは「呂」氏となり、黄金を使って王を生み出すことからキングメーカーとなり、歴史上では太公望呂姜、呂不韋、呂公などとして現れる。
また日本ではこの「呂」氏は「秦」氏と名乗っている。
秦氏は呂氏系秦氏の他にも、彼らが率いて来たその他の民族が秦人と呼ばれるので、必ずしも秦人=呂氏ではない。
なお、サエキは、日本ではさらに呂氏以外も存在し、大伴氏、佐伯氏、阿刀氏、緒方(初期)氏などである。
ウバイド人は、世界に拡散する中で、スキタイ人の上層部として入っていたり、ケルト人やフェニキア人と呼称されたりしている。
世界史上謎の民族とされている人々がウバイド人でなるのかもしれない
タカスとは、エジプトにおいて神官団を形成していた人々。
また、タカスの下に様々な国の雑民が集まり、タカス族を形成していた。
エジプトでは終末再生思想に基づきミイラ作りが行われていたが、宗教行為であるため神官団とは不可分であった。
そのため、タカス族がミイラ作りを生業にし、ミイラ作りの過程を通して人間の肉体構造に精通していた。
精通していた故に外科手術も行い、外科手術の一つに整形もあった。
整形技術は、エジプトファラオの頭型変形の他、特に騎馬民族に歓迎されて影武者作りがなされた。
顔面整形の場合は痛みを伴う手術となるため、痛み止めにアヘンが使用された。
なお、エジプト王国の國體はこのタカス神官団であり、ファラオは飾り物であった。
エジプト王国を後にしたタカス族は、外科手術を得意とする集団や傭兵を生業にする集団に分かれた。
その一派は陸路をとって広がり騎馬民族として広がり、スキタイやトゥルクなど騎馬民族として名を残す民族には、タカス傭兵団も混じっているらしい。
このタカス騎馬隊が極東アジアにたどり着き、羅津の國體黄金や八幡殿の守護を担っていた。
女真族も該当する。
この陸のタカスが崇神の頃に日本にも入ってき始める。
また、この陸のタカスとは別に海から日本に到達したタカスがいた。
彼らが到達したのが薩摩である。
幕末頃でも薩摩の下士の一部に長身が多かったが、これはタカスに由来する。
新政府で名を成す薩摩下士の多くがタカスであったそうであるが、西郷隆盛、西郷従道、大山巌はタカスではなかった。
西郷氏は、真方衆と呼ばれる「欠史八代」の後裔であり、真方衆の棟梁であった。
真方衆と菊池氏は同族であるとのこと。
「サンカ」と呼称された人々は箕作りなど倭人系統とされるが、本来の呼称はこのタカス族に対してであった。
政体を担って歴史の表舞台にいたが、この「サンカ」の呼称を倭人系統になすりつけた。
なお、明治期に「新平民」の呼称がなされたが、これは被差別部落の人々に対しての呼称ではなく、タカス族のうち武士になりきれなかった足軽身分の人々が明治になった際に付与された呼称であった。
人体に通じたタカスは、人体生薬の薬理にも精通しており、特に胆嚢の効能が抜群である。
薩摩藩では、若年の度胸試しとして「ひえもんとり」があり、罪人の死罪が執行されると、彼らはその死体に群がり刃物を使わず歯を使って、誰が先に胆嚢を取り出すかを競っていた。
取り出したものには、その胆嚢が与えられ、自身が人体生薬として使う、もしくは、売っていたとのこと。
二位の者には、アキレス腱の脂肪部分が与えられたそうである。
タカスは日本史上政体を担って大いに活躍している。
詳細は今後の「落合・吉薗秘史シリーズ」で語られると思われるので、それはまで詳説を避ける。
日本には、ウバイド医学とタカス医学の二大潮流があり、教科書で語られない日本の歴史を作ってきた。
これについてもいずれ詳細が明かにされる日が来ると思われる。
タカスはおそらくこれからの日本史のみならず世界史のキーワードになる。
ウバイド人と共に。
佐藤義清(のりきよ)こと西行が全国に作ったネットワークで、皇室の山林管理を行う。
現在も日本全国に60ほどあるらしい。
西行の子孫が主らしく、「佐藤甚兵衛」を名乗るところもあるが、中には佐藤ではない甚兵衛も存在する。
安倍晋三の母方の佐藤氏も佐藤甚兵衛家で、この佐藤家は佐藤甚兵衛の宗家を主張。
また、この周防の佐藤甚兵衛家は、護良親王の息子で周防に極秘で入った興良親王とその子孫を守護していた家でもある。
なお、京都皇統、堀川殿とし京都堀川御所に移られた睦仁親王に代わって明治天皇となられた大室寅助は、この興良親王の後裔。
佐藤甚兵衛家は、歴史の表舞台に出ることもあり、佐藤栄作の佐藤甚兵衛の他、松尾芭蕉が世話になる須賀川の甚兵衛、順天堂の佐藤泰然の佐倉の佐藤、幕末期明治期に名前が出る土倉家などが該当する。
松尾芭蕉は、俳諧の旅に出たとされるが、実際は伏見殿の直臣である藤堂家の司令を受け、甚兵衛を主体とする堂島の米会所の設立のために甚兵衛たちに接触しつつ、酒田本間家の設立を図った。
酒田本間家の活動開始時期と、松尾芭蕉の東北巡行の時期は重なる。
佐藤甚兵衛ネットワークは、土御門天皇のファンドを基に構築されたとのことで、西行と土御門天皇の生きた時代は微妙に異なるが、この時間差がウバイドのファンド運用方法を理解するヒントになるかもしれない。
周恩来、呉達閣、王希天という天津南開中学の三羽烏で、日本に大きな影響を与えたようですが、その中で今回は周恩来とのことです。
周恩来について驚きの姿が明かされていると思うのですが、周恩来に絡んで興味深い施設を知りましたので、参考までに書かせて頂きます。
シベリア抑留をされていた人々のうちハバロフスク監獄にいた969人が、1950年の中ソ友好同盟相互援助条約締結の際にスターリンからの提案で引き渡され、この撫順戦犯管理所に収容されました。
戦犯政策の総指揮をとったのが周恩来らしいですが、この管理所については、手厚い対応を行い、十分な食事が与えられ、強制労働もなかったとのことです。
日本人捕虜が贅沢な食事をとることに反感を抱いたシナ人職員の多くが転出を希望するほどであったとのこと。
また、シナ人管理所員は礼儀正しく、日本人を殴ったり叱ることはなく、丁寧に諭したとのことです。
この管理所で改造教育、思想改造が行われはしたようですが、これは世界の視線を考えると仕方ないことと思います。
周恩来の本領が発揮されたと思ったのは以下です。
1955年9月に、裁判が行われ、155名が起訴され、死刑求刑7名、執行猶予付き死刑求刑3名を検察院は求めたものの、周恩来の減刑指示により同11月に死刑求刑は却下されたとのことです。
ここに、周恩来が負っていたものを感じました。
また、1956年6月に45 名が瀋陽の最高人民法院特別軍事法廷で起訴され、被告全員が罪を認め謝罪したとのことですが、起訴免除者は即日釈放となって1956年7月に帰国、実刑判決を受けた者も満期前に釈放され、1964年3月までの間に日本人戦犯は帰国したとのことです。
なお、満洲関係者も監禁されていたのですが、その中には愛新覚羅溥儀、愛新覚羅溥傑もいました。
どのような選定基準で監禁される人々が選ばれたのかわりかせんが、この施設に絡んだ周恩来の対応は興味深いと思いました。
落合シリーズで、蘇我氏は羅津との連絡役と記されています。
羅津の八幡殿は、第八代天皇孝元天皇の息子ヒコフトオシ(彦太忍信命)が羅津に入って八幡殿となり、彼の孫武内宿禰の後裔が蘇我氏です。
蘇我氏が歴史に登場してくる際、祖先の名前が蘇我韓子、蘇我高麗など朝鮮をイメージさせる名前が付けられています。
(蘇我「馬」子と蘇我入「鹿」で馬鹿となりますが、蝦夷含めてこれら歴代蘇我氏の名前が本当かも疑わしいと思います
欽明朝に入り、国際化が推進されます。
その際、マニ教が入った大乗仏教が招来され、聖徳太子と蘇我氏を中心に仏教の振興が図られます。
聖徳太子は、さらにはマニ教(マニ思想)に基づく四箇院(敬田院、悲田院、施薬院、療病院)建設の推進も図ります。
それが体現された一つが四天王寺です。
応神天皇以来富国強兵が進められてきましたが、欽明朝に入り国際化の推進段階に入ると、中央集権制が必要になります。
それが端的に表れているのが「冠位十二階」や「十七条の憲法」です。
シナや大陸騎馬勢力に対し、ウバイドヤマトの存在を隠すためには日本が(便宜的に)豪族割拠の状態が都合がよかったと思われますが、フェーズが変わり中央集権段階に移ったとみなすことができると思われます。
地方豪族などとしてウバイドヤマトから独立した勢力のように振舞っているウバイド関係者は中央集権の意思で通じ合っていても、下級官吏や民衆はそのようなことはわかりませんし、豪族支配下にいるので、いきなり中央集権と言われても困惑します。
そこで、半ば強引な中央集権の「かぶり役」を担ったのが蘇我氏です。
落合シリーズで、聖徳太子は実際は竹田皇子と秘事が明かされていますが、用明天皇の皇子厩戸皇子として外戚を蘇我氏に偽装したのは、蘇我馬子(と蝦夷、入鹿)に権力を集中させて「かぶり役」をしてもらう意味もあったようです。
「大兄」は國體黄金管理役を示すということで、聖徳太子の息子山背大兄皇子を蘇我氏が討つのも当然八百長で、山背大兄皇子は偽装死してある場所に移っています。
自らが天皇になろうとしたというような汚名も被った蘇我氏は、乙巳の変(大化の改新)で偽装殺害されます。
蘇我氏はこれで力を失ったことになった中で、壬申の乱での蘇我赤兄は大友皇子側に就いて姿を消しますが、実際は大友皇子と共に欧州に消えました。
蘇我氏は、國體側としての役割を粛々とこなしています。
中臣氏の戸籍に入り込む形で藤原氏になる中臣鎌足が現れ、藤原不比等が登場します。
藤原不比等は、田辺史の家で育てられた里帰りの人物で、中臣鎌足とは親子関係ではないようです
國體側の蘇我氏は、天智天皇に娘が入っていますし、また藤原四兄弟の上三人の母は蘇我娼子です。
そして、最後は蘇我氏は石川氏と改姓して、やがて政権から姿を消していきます。
これらの婚姻は國體ファンドも関係していると思われます。
「欠史八代」を祖にする蘇我氏は、多氏、小野氏、春日氏、和爾氏、阿倍氏などと同様になりますが、「欠史八代」はウバイド海人王朝で族種南朝勢力を率いる人々です。
族種北朝が政体を担い、族種南朝が國體を担ったようなので、他の「欠史八代」氏族が目立たなくなり日本各地に散っているのを理解すると、中央から消えていった蘇我氏・石川氏も同様であったと思われます。
後代堺衆になり橘系楠木氏の血が入る酢屋一族の祖先は蘇我氏とのことですが、酢屋一族は海運、商業、薬種業を担います。
落合史観で蘇我氏を見れば、教科書が説く極悪氏族のイメージは吹き飛びます。
「落合シリーズ」は、巻を重ねるごとに深化しているため、ウバイド皇統の変遷で頭がこんがらがることがあると思います。
ウバイド皇統の流れは、現在の整理では以下のようになると思われます。
修験サエキ(ウバイド系)の日本到来から、断続的にウバイドが日本に渡来。
ウバイド皇統もどうかのタイミングで、海人ウバイドたちと共に日本に渡来。
精神が共通する縄文人とウバイド人は、共振共鳴して同化。
以前はBC1400頃ウバイド皇統が到来となっていましたが、現在はこの辺りはボヤかされています。
ウバイド海人(安曇族)の神武が、大陸の騎馬民族の動きに対応し、陣地の縦深化を企図してヤマトに東遷。
ウバイド九州分国を「倭」として表に出し、本体としてのウバイドヤマトは隠蔽(聖徳太子の遣隋あたりまで)。
ウバイド皇統の一派を、後々百済となる騎馬民族のワイ族に存在したウバイド騎馬民と混血させ、その後裔が崇神天皇として日本にやってくる。
開化天皇の息子として疑似接続。
崇神の血統は、父系はウバイド海人。
崇神は、日本に既存の罌粟とはまた別の罌粟を携えて日本へ。
魏志倭人伝に記される倭国大乱は、この崇神渡来に関係するのでは、となっています。
騎馬民族にとって、農耕民族は略奪と支配対象であり、対等ではないので、皇統も騎馬民族でなければ大陸の騎馬民族と同等として扱われないため、皇統を擬似騎馬民族化。
後々の聖徳太子の隋への国書が対等なのも、隋も騎馬民族の鮮卑が建てた王朝であるので、不自然ではありません。
第8代孝元天皇の皇子彦太忍信命(ヒコフトオシ)が、朝鮮半島の羅津に渡り八幡殿となっていたが、その後裔の応神を奉迎。
応神は、羅津から莫大な國體黄金を持参。
この黄金持参を誤魔化すために、神功皇后の新羅征討と財宝持ち帰り譚が作られる。
日本での國體黄金秘匿地選定をヤマトタケルが行い、それが彼の東征譚となる。
偽装死して、同じく偽装死した仲哀と共に羅津に向かい、応神と仲哀を入れ替え。
応神と戦う、忍熊王と香坂王も偽装死して羅津へ。
つまり、ここでも応神の血統は「欠史八代」の後裔。
継体を八幡殿から奉迎。
応神の持参した國體黄金を元手に日本の富国強兵を進めた後、大陸や朝鮮に対して国際化を行うために、継体が登場。
継体の奉迎に当たり、武烈は極悪非道の天皇という話が作られたが、当然そのようなこともなく、実際は偽装死して佐渡へ。
欽明を八幡殿から奉迎。
継体朝よりさらに本格的な国際化を進めるために、欽明が登場。
また、今後の日本国民の在り方を規定するものとして、マニ思想が入った大乗仏教を日本に招来。
継体朝の頃から、大伴金村が朝鮮政策で失策をとり、欽明朝すぐ任那の新羅併合で失脚するのは、八百長。
朝鮮半島から日本は手を引き、高句麗、百済、新羅での抗争状態としつつ、親百済政策をとって百済を緩衝地帯として利用。
実際は推古天皇の息子の竹田皇子が聖徳太子であったが、彼がさらにマニ思想の普及を進める。
八幡殿との連絡をとる係でもあった蘇我氏に権力を集中させることで、一気に日本の中央集権体制を進める。
蘇我氏が打倒される乙巳の変も当然八百長
新羅が勃興するなかで、663の白村江の戦いで、日本の朝鮮干渉の芽を断った後、壬申の乱勃発。
大海人皇子と名乗った天武天皇は、これまでの擬似騎馬民族皇統ではなく、別のウバイド皇統の海人系。
天武系は、淡路廃帝の淳仁天皇と次に重祚した称徳女帝まで続き、改めて擬似騎馬系皇統の光仁(桓武の父)にバトンタッチ。
以上を関係だけ抽出すると・・・
① ウバイド海人皇統(開化天皇まで)
② 擬似騎馬民族ウバイド海人皇統(崇神~天智)
男系はウバイド海人皇統ながらも、習俗は騎馬系
③ ウバイド海人皇統(天武~淳仁)
④ 擬似騎馬民族ウバイド海人皇統(光仁以降)
崇神辺りがこんがらがりますが、これまでのシリーズを総合したりあれこれ情報を整理すると、崇神朝の男系はウバイド海人のようです。
皇室の菩提寺とされる泉涌寺に天智天皇以降の位牌で、天武朝の位牌だけがないのも、上記のことを適用すれば理解できるように思います。
そして、「満鮮経略」と不可分な皇統の「深化」を知ると、國體を守るために皇統やその他ウバイドが腐心して活動してきたのが実感できるように思えます。
すでに古代から「地政学」はあったわけで、その地政学に基づいて日本やアジアの國體を護ろうとされてきた國體勢力に、改めて感謝したいと思います。
日本と朝鮮半島の古代史を考えるにあたり。
<落合シリーズなどの要約>
(高句麗エリアとの関係は切っても切れないので、高麗神社に陛下が行かれるということだと思います)
結論として、高句麗、百済、新羅共に、ウバイドと関係したことがわかります。
武寧王など日本人とされる人々が百済に登場したり、新羅にも瓠公(瓢公)が登場したり、昔氏が日本人という話があるのは、それなりに理由があることが見えてきます。
新羅の花郎が新羅が滅んで以降姿が見えなくなる900-950頃は、まさに日本では源氏が勃興する時期です。
八幡太郎義家、高麗次郎義綱、新羅三郎義光は、父とされる源頼義とは親子ではないようで、清和源氏の源流である源満仲は大伴氏で、賜姓皇族源経基の養子とのこと。
そして、3人はそれぞれの出身地を示しているようです。
ということで、ウバイドと縁がある高句麗、百済、新羅が、日本で中央集権が完成に向かう文武の頃には新羅で統一され、日本で荘園制が発達して武士が伸長を始める頃に新羅が滅んで花郎が姿を消すことは、繋がってくるように思います。
ウバイド要地の羅津は渤海が守護します。
平将門の乱も、新羅移民が日本で独立の動きを見せたので、それを防ぐためのものだったことも、落合シリーズでは書かれていますが、それとも繋がってくると思います。
高句麗、百済、新羅も、ある目的のもとに存在していた、と見ることもできそうに思います。
鎌倉時代に、皇室荘園群のうち八条院領を有する大覚寺統(亀山天皇系)と長講堂領を有する持明院統(後深草天皇系)という2つの皇統に分裂していたが、この2つ皇統とは別に皇統を継いでいく系統として永世親王家伏見宮を生み出すことが企図された。
そして、伏見宮の血統を大塔宮護良親王の血統とし、皇統は護良親王系のみが継ぐという極秘の取り決めがなされた。
上記をガイドラインとして、鎌倉幕府滅亡期~南北朝動乱を経て伏見宮から出た後花園天皇が登場するまでの一連の計画・施策。
そのために、後醍醐天皇の寵姫阿野廉子と護良親王が不仲を装いつつ、護良親王が後醍醐天皇と対立することを偽装して、鎌倉に連行される。
(★落合莞爾氏は護良親王の後裔です。)
(★初代に栄仁親王を入れたのは、國體ファンドに絡むと考えていますが、落合莞爾氏からこの点の発信はまだありません)
足利直義、新田義貞、楠木正成は偽装死して消える。
(★当時はペストの大流行で、外部進入しやすかったとのこと。)
<落合史観の深化による、大塔政略の拡張>
それぞれが南北朝の皇統を継いだ段階で、血統としては大覚寺統になっていた。
大塔政略の大筋を述べると上記のようになります。
現在頭の中に残っていることだけで書いたので、もし「あれ足りないよ」というのがあれば、ご指摘頂けると幸いです。
ところで、プレ大塔政略ともいうべき計画は、もっと早くから始まっていたように思われます。
シナの封建制が周の時代、欧州の封建制がゲルマン民族によってなされていて、日本は封建制がまだでした。
班田制度の崩壊、荘園の発達は財産である土地を守るために、必然的に国衙兵士以外の私的な武装集団(武士)を必要とします。
統治機構は統治のために必ず暴力装置を必要とし、現代ではそれが各国の国軍です。
武士の登場は荘園制とは不可分であり、武士が平安後期~江戸時代まで日本を封建制で支えたことは、偶然でしょうか?必然でしょうか?
落合史観を知ると、学校で教わったり他の識者が述べるのとは別次元で、歴史の流れがクリアに見えてくるように思います。
日本と世界が変わり始めた昨今、日本の歴史教育が近現代については日本史と世界史を統合して「歴史総合」として学ぶことが学習指導要領改訂案として出されたのは偶然でしょうか?
「京都皇統」とは落合莞爾が命名したもので歴史用語ではないが落合史観を読み解いてもらうには「ウラ天皇」等とは呼べない。
「欧州王室皇統起源説」が表に出る以前より落合莞爾が説いたものである。(神聖ローマ帝国の世襲皇帝になった南朝王子 落合・吉薗秘史シリーズ
バチカン非公開資料に「バチカン天皇系図」があり、落合莞爾の考察に酷似している。
さて、真実の歴史を解き明かされた時、世界が一つになる事を祈るばかりです。
※ 本ページの用語解説は、國體史観研究会(有限会社桂輪文庫)の公開情報をもとに、 当研究会公式サイトへ収録したものです。文中の吹き出しは落合莞爾の語りを示します。 内容は落合史観の独自の解釈を含みます。